2018.11.13

会社にいると自分のポンコツ具合を、周りの同僚の気遣いや優しさから縁取られ、小説(のようなもの)を書くと自分の未熟さを、読んだ人の(こんなわけわからんこと書くやつは病んでるだろうという見込みの)気遣いや優しさから縁取られ、縁取られた形を私自身が見つめ、ああ、スプーンでぐりっとちぎった、煮込みすぎたこんにゃくみたいやとうなだれる。

この前若手の歌手の特集をテレビでみた。歌詞が特徴的と紹介されてて、PVとともに小洒落たフォントで演出されていた。いいなぁと思った。でも(いわゆる)町の人の声は「共感できる」だった。

私自身が見つめる私の形とは何だろうか?他人から見た私の形が言葉や表情や、皮膚のうねりや産毛の逆立ち、発する匂いや気化する汗になって現れるとき、それは現れであって形そのものじゃあない。

それでもその現れを、こんにゃくとして見てしまう、彼らは私をこんにゃくとして見ていると見てしまう。それは彼らの中に私が私を見出して、私が私を見ている(少なくともそういう風に振舞っている)からなんだろう。

歌詞をいいなぁと思ったのは、他人に見出す私を拒否する仕掛けが施してあるようで、そこにぶるぶるっとブレたこんにゃくがいて、一瞬里芋が見えたからだ(私はこんにゃくよりも里芋の方がしゅっとしてると思うので、こんにゃく派の人、ゴメンなさい)。

それでも歌詞は言葉だし、言葉は現れの一形態だし、それを見ているのは他ならぬ私なんだから、私が里芋をみたからといってそれはお前が里芋バイアス強いだけだろと言われればそういう一面もあると思う。

でもこんにゃくに収束されない私を、私は見てみたい。現実逃避だけども、逃げ切るところまで逃げきったら、こんにゃくの味が染みた良さだってわかるんじゃあないか。

「わかるぅ〜」なんて言いたくない、せめて里芋を通過したい。

 

今週の土曜に、白髪一雄の絵を見に行く。

没後10年 白髪一雄 水滸伝 豪傑シリーズ -アクション・ペインティングによる豪放の世界- | イベントスケジュール | 尼崎市総合文化センター

何が見えるか楽しみだ。