2019.03.26
小説を公募に出した。出した先は「すばる文学賞」。
まず自分の書いたものがどういったジャンルに該当するか考えた。考えたけどうまく分類できず、妻とも考えたがこれもうまくいかず、じゃあ何でも受け付けてくれそうな純文学かSFに絞った(絞ったといえるのか?)。
また書き終わったタイミングから書き直しの期間を考えて、3月末締めの公募にしようと考えた。純文学は新潮新人賞、すばる文学賞、文藝賞の3つで、SFはなかった。
加えて規定枚数が基準を満足できているか考えなくてはならなかったが、上記3つはどれも大丈夫だった。
あとはこれという理由はなかったので、何となくすばる文学賞に決めた。
会社にいても今日は何でもない日のうちの1日、年度末の忙しさも最終週になればかなりほとぼりは冷めているので、どちらかというと暇、穏やかが過ぎる午後であっても、私にとっては長い間付き合ってくれた作品とお互いに離れる日であって、断絶は寂しくはあるのだけれど、また新しいものを書かせてもらおう、また別の仲間が現れる、小学校のときのクラス替え以来の高揚をおぼえる。
これほど大きな存在となった執筆という作業が、当初の衝動的、突発的な性格は消え、それは初めの一文字目を書かせるために役に立ったのだけれど、ヒゲを剃ったり歯を磨いたり、お弁当作ったり洗い物したりする生活様式の一つの成分として混ざり合っている。
書く行為自体すでにそれだけならばマニュアル化されたようにこなす、何か表したいものなんてなくとも、むしろそんな大層なものは無いことがほとんどで、あってもご飯を食べて寝ると忘れてしまう、ただそれっぽいことを考えることなく書けるようになった、今もそうしている(もちろん、もっとできるはずだ考えている、正確にはそう望んでいる)。
このように得た身体感覚は、良かったのか良くなかったのかと問われると、よく分からないし分からないことは正しさを含んでいる。良いとか悪いとかは、たとえば混じり合った波のうち、それを成すある周波数成分のようなもので、時系列的に、また個体別に整理すれば確かに良い、ないし悪いスペクトルが際立つこともあるんだろうけども、それが定常状態かとなると違う。なので、あることはあるのだからとりあえず大事にしたい。
そのためにも公募には出し続けるべきだと考える。次はどうなるかなぁ〜。