2019.05.17

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普段起きているとき、例えば朝家でお弁当を作ったり朝ごはん食べたり、歯を磨いたり着替えたりするとき、仕事で期限とやらなきゃいけないことをにらめっこして作業の計画を立ててひとを割り振ったり、要件定義のために噛み合わないように見える話を噛み合うようにしたり、あれこれ数字を計算して文書を作ったりしているとき、帰って晩ごはん食べてNetflixで映画みて、シャワー浴びて歯を磨いているとき、たいていおだやかに過ごしているし、モノ申すことなんて滅多にない。

 


でも寝るまえ、本当に寝るまえ、布団に入って目をつむってその30秒あとぐらい、急に仕事であったことが、そのときはすっと流していた、まあそんなこともあるしこれからどうするか考えなきゃと思ってた、思ってたことすら忘れてたことが、怒りの対象になって、ずっとソワソワしちゃって、そのまま1時間ぐらい寝れないのが、今週一週間続いている。

今さらの変更って何考えてるんだ?ホールドポイントの管理してないじゃない?追加作業でお金の工面どうするの?先方の言ってることだしって言えば何でも従うと思っているのか?と、悩めるサラリーマンの常套句が摩擦抵抗なくするすると出てくるけど、当然仕事してるときはこんなこと思わないし、これを書いてるときの自分から寝るまえの自分をみると、まだまだ若いなぁっていう感じがする(自分のことなのにね)。

 


どうしてかなあと思ってたんだけども、きっとこれは供養のたぐいじゃあないかと考えた。その日あった嫌なことは、嫌だと明瞭に認識されずにその場は話を前に進めるために何をすべきなのかだけに意識が向いてる気がするし、だから仕事で怒ることなんてないし、穏やかだし、たいてい笑ってる(このせいですごい明るいヤツだと思われるけど、それは半分くらい間違いだ)。

で、定期的に、溜まった嫌なことを燃やして灰にして肥やしにするために、罵詈雑言を寝るまえというぼやっとして他人に危害を加えないタイミングでそれをやってる、ということなんだろう。

そういえば小さい頃からイライラすることがあって何か物に当たると、母親から投げたレゴブロックと壁に対して謝れと言われ続けてたな。物とか人とか区別つけず、感情に振り回されないようあの頃から習慣づけられてたんだなあ。それはそれで失ったこともあるだろうけど、得たことも大きい。

 


それでも供養するにも体力は使うようで、今日は寝坊してしまった、お弁当も作れず朝ごはんはセブンイレブンのサンドイッチ。照り焼き美味しいよね。

2019.04.07

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なぜ小難しい哲学書や文芸書などを好むのか、仕事以外に頭を働かせてしんどくないのか、もっと気楽に楽しめるものは見たり読んだらしないのか、概ね上記のような問いを、投げかけられるし、今日は特にそれが多かった。趣味趣向が合わない寂しさには慣れ、多少驚かれたり引かれたり、そういう場所、本を読む人が少ない場所、にいるからそういう機会に巡り会うことが多い、のだろうとも思うのだけれど、真面目に答えることなく、なんなんでしょうねぇとか言いながら、自分と同じように他人の感覚に立ち入るほど不躾でもないので、あまり気にすることもなかった。

ただ何を行うにせよ、費やす時間と労力と資本は有限であり、飯のタネになる生業としてやってはいない、つまり立場の説明は一切求められてもいない、そのことについて何が良いとか悪いとかはないと思っている、のだけれども、公募にも出してそのあとすぐにまた書き始めていることもあって、その分できなくなっていることもあるのだろうし、それが妻や仕事仲間にどう降りかかるのか、今のところはっきり分かる形で表れていないものの、分からないということもあり、現時点での考えを言葉を用いて交通整理をすることも、単なる記録としても、新たな素描対象とすることとしても、良いのではないか、と思い立ち、こうしてモニターの前に向かっている(関係ないが、なぜ理系の教本や資料には最後の伸ばす記号("ー"のこと)を省略することが多いのだろう)。

 

私の実感だけれども、人生は難しい、そして退屈で、ひどく痛ましいこともある。カフカを持ち出さずとも、誰かしら不幸だ、理不尽だと感じた経験(その言葉を知っている時点でそうなのかもしれないが)はあると思っている。単に私が、ない、という人を見たことがない、かもしれないが、私は多くの人の目に映り手を取りたくようなありとあらゆる広告を目にしてきたし、その大半は幸福になるにはどうしたらいいのかという主題に沿っていると認識している。それが正しいのであれば、全員とはいかなくても大多数が、自分が生きている人生について、複雑で困難で、乗り越えるに大きすぎる障害があるのに手持ちの道具は頼りない、そういうものとして捉えていると考えても、大きく外れることはないと考える。

わかりやすい面白さ、ないし凄さ、多くの人がそう思えるという意味において、を、小説や映画、絵や音楽、自然、滝とか森とか海とか、仕事や生活に求めているのは、上記のような困難なものとしての現実の認識に対して、一つの癒しとしての役割を得ているのじゃないかと考えている。これについて私は、あくまで私は癒しきれない、物足りなさを感じる。たとえばある映画を見た時、見た直後はその影響下にあるものの、仕事に行く身支度をして通勤して満員電車にもまれて、仕事をして疲労して、また電車に乗って帰っている間には、すっかり忘れてしまって、都合よくつまらない疲れた休みたいなどと言ってしまう。そしてまた小説を読んだり、出かけてみたりして、そのときは癒されるものの、また退屈で決まりきったつまらなさにつぶされる。

これでは対処療法ではないかと思うのだ。

私が私のために成すべきは、そのつまらなそうに見える、繰り返しに見える、つらそうに見えるそれを、分解し、変数を抽出し、関数を作り上げ、組み合わせ、モデル化し、再現した際に見える有意義な部分を、見出すことではないか、何ならその過程そのものに、そうさせた私と私でないものに対して、喜びを得られるような感覚を得ることができれば、この困難さという認識の枠組みを中和する、面白いことと退屈なことの二項対立を解消することができるのではないかと考える。(正確に言うとそう考えていたのではないかと思う。興味を持ったきっかけはもう思い出せないし、気が付いたら読んでいたことなので、明確な目的からそれを実現させるための手法を考えたのではなく、すでに現実として起こったことから考えてみている。)

つまらなさそうなことでも、辛いことがあっても、考えるために全身でつまらなさ、辛さを引き受ける、そして考える、そのための手はずと道具をそろえ、時間を確保し、体力をつけ、実践し反省する。いかに空が青いのか、いかに樹木が恐ろしいか、いかに空気が軽やかか、いかに私であるということが矛盾をはらみ不思議なのか、それ以上に何を望むのか。わかりえない問いに対して考え続けることを自分の形として制作する、そして得た形によってフックされる事柄によって日常=つまらないと思っていたものを変色させる。それがまた考えるネタになる。

もちろん上記は十分などではないし、全体を捉えることができない私が十分という表現をもちいること自体ナンセンスな感じだが、今現時点においては。これでもって終わろうと思う。

2019.03.26

小説を公募に出した。出した先は「すばる文学賞」。

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まず自分の書いたものがどういったジャンルに該当するか考えた。考えたけどうまく分類できず、妻とも考えたがこれもうまくいかず、じゃあ何でも受け付けてくれそうな純文学かSFに絞った(絞ったといえるのか?)。

また書き終わったタイミングから書き直しの期間を考えて、3月末締めの公募にしようと考えた。純文学は新潮新人賞すばる文学賞文藝賞の3つで、SFはなかった。

加えて規定枚数が基準を満足できているか考えなくてはならなかったが、上記3つはどれも大丈夫だった。

あとはこれという理由はなかったので、何となくすばる文学賞に決めた。

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会社にいても今日は何でもない日のうちの1日、年度末の忙しさも最終週になればかなりほとぼりは冷めているので、どちらかというと暇、穏やかが過ぎる午後であっても、私にとっては長い間付き合ってくれた作品とお互いに離れる日であって、断絶は寂しくはあるのだけれど、また新しいものを書かせてもらおう、また別の仲間が現れる、小学校のときのクラス替え以来の高揚をおぼえる。

これほど大きな存在となった執筆という作業が、当初の衝動的、突発的な性格は消え、それは初めの一文字目を書かせるために役に立ったのだけれど、ヒゲを剃ったり歯を磨いたり、お弁当作ったり洗い物したりする生活様式の一つの成分として混ざり合っている。

書く行為自体すでにそれだけならばマニュアル化されたようにこなす、何か表したいものなんてなくとも、むしろそんな大層なものは無いことがほとんどで、あってもご飯を食べて寝ると忘れてしまう、ただそれっぽいことを考えることなく書けるようになった、今もそうしている(もちろん、もっとできるはずだ考えている、正確にはそう望んでいる)。

このように得た身体感覚は、良かったのか良くなかったのかと問われると、よく分からないし分からないことは正しさを含んでいる。良いとか悪いとかは、たとえば混じり合った波のうち、それを成すある周波数成分のようなもので、時系列的に、また個体別に整理すれば確かに良い、ないし悪いスペクトルが際立つこともあるんだろうけども、それが定常状態かとなると違う。なので、あることはあるのだからとりあえず大事にしたい。

 

そのためにも公募には出し続けるべきだと考える。次はどうなるかなぁ〜。

2019.02.10

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毎朝ながめる大きな木がある。裸にされて先を落とされた。いつも朝七時に通勤路からは朝日が木の左後ろにあるから、真っ黒につきささっている。今日見たら、先の方から細い枝が、細かい葉がついていた。夜の九時を過ぎた電車は嫌いだ。酒臭いし悪口が過ぎる。くらい夜中に、明る過ぎる。起きたらコーヒーを飲みたい。ペーパードリップで。穴は一つにして欲しい。湯を注ぐ時間を作らないから悪いのだけれど。北側だし照明が切れるから、本を読もうとしてもそうさせてくれないことが時々あったりして。暗い背景にある印字された黒い文字。卵焼きが口に運ばれようとした時に落ちる。冷えた出汁はシミになった。かじかむ手でキーボードを打つと、指先の爪垢がたまっていることに気が散る。昨日飲みすぎたせいでおなかの調子が悪い。トイレに駆け込むのは決まって午前中だけなんだ。昨日買い替えた付せんは安物だったから、色が鮮やかでしんどいと言われた。くの字型のデスク、隣の人同士の会話の方向が気がかりで、付せんは私の机にしまった。少し割高だけど色の淡いものを窓際の引き出しに入れておく。追いつけない向こうの方に、消えかかった日々の生活。近所の友だちと一緒に乗ったブランコ、一番高いところで飛び降りて、どこまで飛べるか競争していた。今はあの笑顔に向かって、静けさに耐えている。電車のホームに並ぶ。同じ顔触れだけど名前は知らない。いつもこの列の先頭にいる人、金曜日だけはニューバランスのスニーカーじゃなくて、赤いパンプスを履いていた。今日はいない。いつも3階建ての屋根が急なおうちの前で、たむろしている二匹の猫が、見つけるとすり寄ってきて、片方は必ず私のひだり足を左後ろ足で踏んでいく。噛み癖はいつも治らない。もう片方はいつもだるそう。少しついては来るけども、最近は離れると彼らも家の方に帰っていく。レイモンド・カーバーの短編集を仕込んだかばん、取り出して読むことは週に二回ぐらいだけど、いつもけなげに定位置にいる。油汚れのひどい作業着と空になった弁当箱に押しやられる。改札前の向こうから消える海をじっと見ていたあの老人は、また明日もそうやっているんだろう。意味のない別々の私たち、束ねるこの私に向かって、何を問うというのだろう?何を答えるというのだろう?生活様式の鏡のふるまい、こぼれた者たちでくみ上げあられる朝焼け。私の人生は充実している。

2018.12.03-18

何か書き留めなくてはと思っていても、日々の生活は仕事と家事が次から次へとやってきて、それをなくすためには金銭を費やす必要があるけれど、そんなにたくさんのお金はなく、結局自分ですることになり、気付けば夜遅くになり、今日も寝ようと書けず、諦め、諦めたことすら忘れ、思い出すことにも諦めていたとき、数十字のメモ書きはそのときの、書くことによって、何も得られないのにも関わらず跳躍しようとしていた高揚や、僥倖を、朝七時二七分発の満員電車に乗りながら、押し込まれながら、ホームでながめたスマホの画面を思い出し、堪能していた。

 

結婚して二年、妻が亡くなる想像が止まらなくなることが、結婚する前になかったわけではないけども、よくある。駅までの道中車に轢かれないか、帰宅したら強盗に襲われてないか、混み合った駅のホームで何かの間違いで線路に落ちてしまわないか、職場で事故に巻き込まれないか、昨日体調が優れないと言っていたのは重い病気の前兆でそのまま冷たくなってしまわないか。

家に帰ってお帰りと言われてほっとし、元気な姿にほっとし、連絡がつくとほっとし、温もりをこの肌で捉えるとほっとする。

 

先のことなんて分からないし、そもそも今のこともわからないし、ひょっとしたら昔のこともわからないかもしれない。自分が誰なのか、本当はわからないし、妻が誰なのかもわからないし、家族なんて何でもないんだろうし、僕が過ごした田舎もないし、父も母も妹も、何者か分からない、何かわかりあることがあるとするならば、何も分からないということだけなんだろう。そうじゃなければ、哲学や数学や芸術なんて要らないし、消え去ってしまっただろう。

 

それでも、この僕が妻とみる女性がいて、家族だと思う枠組みがあって、友人と呼べる親しみをもって接することのできる人が何人かいて、帰る田舎があって、父と母と妹がいて、そうして見つめる僕がいる。誰、ではなく、いる。それは僕だけではなく、妻にとっても、友人たちにとっても、家族にとっても、近所の犬や猫にとっても、概念としての田舎にとっても、そうなんだろう。

みんな僕の中にいる。いなくなってもいるんだろう、それが僕であっても妻であっても。

 

だったら死ぬことなんて怖くないんじゃないか。怖がっているのとはまた違うんだ。そうなったとき、日々の過ごした跡が、もう二度と二人でどこにも刻むことができなくなってしまうことが、痛む鼻の奥みたいにずっとまとわりつくんだ。

 

だからこそ、日々の暮らしを、跡を残そう。花を生けよう。お茶を飲もう。近所を散歩しよう。写真を撮ろう。食事をしよう。仕事をしよう。家事をしよう。布団に入ろう。

帰路(その2)

階段を滑る人、手すりを頼りに私は降りる。階段は湾曲する。都度曲率は変わる。ふらつく地面の上を彼らと共に進む。手すりを握る手のひらを押し返す赤色の冷感、地面を捉える足の裏の空域。息苦しくなる砂混じりの海の吐息は、私を包み、彼らを包み、地面を包み、私に包まれる。地面は私の眼前に迫る。腐った生活の匂いが顔面に取り巻く。燃えるゴミの破れた袋が電信柱の脇に隠れているが、あれを私はどこから見ているのだろう?どろどろになった自意識は、蒸散し、見えなくなり、汗になった。まだ出生の是非を決めかねている赤ん坊のように、丸くうずくまり、熱い地面と抱擁を交わした……。

……散らばった霧が窓ガラスで集結する。お互いを抱き合い、一つになり、地面へ垂れ、水溜りとなる。半身風にさらされた私の身体は、地面から引きはがされ、立ち上がる。膝に手をつき上半身を支えていたが、矩形の期待は真っ暗な、背景に隠れた底の底から突き上げ、側溝に向かって吐き出された。
老人が一人。私の隣に来て、背中に手を当て、話しかける。その顔は、さっきまで乗っていた列車に充溢していた顔たちと同じもの。老人の肩越しに歩く人々を見るが、この老人と同じに見える。何か同じ調子で鳴いているが、嬉しいのか怒っているのか、悲しんでいるのか喜んでいるのかわからない。私には。
老人の手を乱暴に払い、うあうあとよだれの垂れる口で吠え、歩き出す。交差点の白に着色されたところだけに足を運び、鼻につくカレー屋の脇を通り抜ける。小エビがコンクリートの上に散乱し、踏み固められ、乾燥している。深い緑の目眩は収まらず、下向きの矢印は、指し示す方向が安定しない。高架下には飲みかけの缶ビールが供えられていた。
苦いトンネルを抜ける、階段になる。一歩ごとに黄色と橙色の列車の走行に接近し、街灯が明るく点滅しているのを、視界の端の方で捉えた。直角に方向転換する、中間のひらけたところで、水の無い用水路にまた嘔吐する。ひび割れたコンクリートと、敷き詰められた直方の石はにやつきながら私の吐瀉物を受け止め、下方へ流した。ずっと街灯は、ずっとこっちを見ている。笑いもせず、眉間にしわを寄せるでもなく、見て見ぬ振りをするのでもなく、じっと、見て、捉えている。
所々塗装の剥げたガードレールが肩を持ち、また立ち上がり、流しきれなかった胃液を掴んで投げつけたが、彼は私の立つ地面を水色や桃色に染め、影と白目は紫に沈んでゆく。
私は泣いた。理由はないが。情けなくなったのだろうか?だとしたら何に対して?悲しくなったのだろうか?だとしたら何に対して?心が震えたのだろうか?だとしたら何に対して?怒りがあふれたのだろうか?だとしたら何に対して?ただ涙は、ただ地面へ落ち、ただひび割れた隙間に染み込み、ただ用水路を駆けてゆく。ただ涙は、ただここにいる私を、過去に引き戻してしまう、ただここにいることができなくなってしまう。情けなくなってきた、悲しくなってきた、心が震えてきた、怒りがあふれてきた。
二つ、こちらに向けられる縦長の視線、街灯のような厳しいものではなく、それは私を包む。視線は、黒の背景から輪郭を得、しなる無数の線は私の身体に寄り添った。溶けるような温もり、剪断力が流速に反比例する。
彼女は声をかけた、私もそれに応えた。
滑らかな半円をした背中を撫でると、彼女はまた一声私にかけ、階段を駆け下り、風に消える。
私は立ち上がった。街灯の方はもうこちらを見ていなかった。階段を登った。

帰路(その1)

たっぷりとした雲の下、電車から押し出された私はホームから土色の海を臨む。左から漂う磯の藍色、右から叩きつける腐葉土の黄土色、交差した濃度差は層を成し、破れ、形相を帯びる。
対流する私を取り巻く気相は、抱えきれないほどの湿気を携え、天井のトタン屋根に落ち着く。それらは私を冷やすことが苦手だ。私の肌は放熱できず、焦燥は憧れになる。
自販機が静かに指し示す先は、消失点の向こう側であり、並列したレールは、膨張し、競争し、互いを退けあいながら、一点となる。
捉えることのできない向こう側からやって来たんだ。私は自販機と一緒に向こうを見た。視界が捉える無限の反省は、世界の記述領域の境界であり、その向こうは何もない。そこから私はやってきたというのに。
電車のドアが閉まる。一斉に閉まる。彼は息を吐いて、ゆっくりと動き出した。私も自販機とは逆を向いてから、階段に向かって歩きだす。自販機の側は、吐瀉物を清掃した拡散する黒ずみで汚れている。私はそこを避けて、ベンチを通り過ぎて、階段を目指す。突き上げる肉の焼ける匂い、地面近傍で加速する砂つぶたち、百二十分遅れを知らせる構内アナウンスは意味を無くしてしまった。私は階段を目指す最中、胃の奥から込み上げる矩形の期待に辟易する。焼けた口の中は吐息も避ける。
込み合う階段は、左右に分割され、断絶したはずの進行方向が、大量の往来によって交錯する。黒の斑点が散逸する一歩が、身体の状態を高揚させる。私の前に人々がいる。たくさんいるのだ。彼らは歩いており、向かっている。不必要な早足は、うねりとなり、白波はその都度生成し、消滅する。そのうちの一人は、私の進行方向と逆のベクトルをなして同調している。衝突の寸前、私たちは止まり、軽く会釈をした。すれ違い、私も彼女もそれぞれの方向に向かって消えてゆく。無限回繰り返されないこの重なり合った有限の場において、これまで幾度となく繰り返してきたルートをたどり、昨日も今日も明日も同じようなことを繰り返すのであり、それこそ意味なき愛おしい日常であるというフェティシズム。視線を少し上げれば、顔を見ることができただろう。目を見れば、そこで交換された情報量から場を歪ませることができただろう。起点などいくつでも作ることができる。その力積に耐えることのできる認識を、私たちは持ち合わせていない。
コンコースはターンする雑踏で溢れている。透明のエレベータが一人落ち着いている。中腰になりながらトイレに向かうあの女性、あれは三か月前の私だ。視界は粒上の黒がちらつき、力が全身から抜けていく。冬の痛さが残る中、私は全身から噴き出した汗に閉じ込められていた。あの時の虚脱感が、その後の肉体の充実が指先を痺れさせる。
改札は不必要な勢いでそのゲートを開き、私は帰路と逆方向の海の方へ向かった。海の表面をめくり、かきむしる風は、改札出口まで吹き込んでくる。息苦しくなる。
真っ赤な空気を身に纏った人々は、淡い藍色の方へ次々と飛び込んでゆく。剥がれ落ちた赤は、揺れる水平線へ回帰していく。僕はその様を一つの客観として、景色として、どこにもあわせようのない焦点を面で捉えて、光沢のある手すりに寄りかかって見ていた。
その水平線の向こうの方から、近づいてくる像がある。輪郭が乏しいそれは、頭部を失った象のようだ。