2019.04.07

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なぜ小難しい哲学書や文芸書などを好むのか、仕事以外に頭を働かせてしんどくないのか、もっと気楽に楽しめるものは見たり読んだらしないのか、概ね上記のような問いを、投げかけられるし、今日は特にそれが多かった。趣味趣向が合わない寂しさには慣れ、多少驚かれたり引かれたり、そういう場所、本を読む人が少ない場所、にいるからそういう機会に巡り会うことが多い、のだろうとも思うのだけれど、真面目に答えることなく、なんなんでしょうねぇとか言いながら、自分と同じように他人の感覚に立ち入るほど不躾でもないので、あまり気にすることもなかった。

ただ何を行うにせよ、費やす時間と労力と資本は有限であり、飯のタネになる生業としてやってはいない、つまり立場の説明は一切求められてもいない、そのことについて何が良いとか悪いとかはないと思っている、のだけれども、公募にも出してそのあとすぐにまた書き始めていることもあって、その分できなくなっていることもあるのだろうし、それが妻や仕事仲間にどう降りかかるのか、今のところはっきり分かる形で表れていないものの、分からないということもあり、現時点での考えを言葉を用いて交通整理をすることも、単なる記録としても、新たな素描対象とすることとしても、良いのではないか、と思い立ち、こうしてモニターの前に向かっている(関係ないが、なぜ理系の教本や資料には最後の伸ばす記号("ー"のこと)を省略することが多いのだろう)。

 

私の実感だけれども、人生は難しい、そして退屈で、ひどく痛ましいこともある。カフカを持ち出さずとも、誰かしら不幸だ、理不尽だと感じた経験(その言葉を知っている時点でそうなのかもしれないが)はあると思っている。単に私が、ない、という人を見たことがない、かもしれないが、私は多くの人の目に映り手を取りたくようなありとあらゆる広告を目にしてきたし、その大半は幸福になるにはどうしたらいいのかという主題に沿っていると認識している。それが正しいのであれば、全員とはいかなくても大多数が、自分が生きている人生について、複雑で困難で、乗り越えるに大きすぎる障害があるのに手持ちの道具は頼りない、そういうものとして捉えていると考えても、大きく外れることはないと考える。

わかりやすい面白さ、ないし凄さ、多くの人がそう思えるという意味において、を、小説や映画、絵や音楽、自然、滝とか森とか海とか、仕事や生活に求めているのは、上記のような困難なものとしての現実の認識に対して、一つの癒しとしての役割を得ているのじゃないかと考えている。これについて私は、あくまで私は癒しきれない、物足りなさを感じる。たとえばある映画を見た時、見た直後はその影響下にあるものの、仕事に行く身支度をして通勤して満員電車にもまれて、仕事をして疲労して、また電車に乗って帰っている間には、すっかり忘れてしまって、都合よくつまらない疲れた休みたいなどと言ってしまう。そしてまた小説を読んだり、出かけてみたりして、そのときは癒されるものの、また退屈で決まりきったつまらなさにつぶされる。

これでは対処療法ではないかと思うのだ。

私が私のために成すべきは、そのつまらなそうに見える、繰り返しに見える、つらそうに見えるそれを、分解し、変数を抽出し、関数を作り上げ、組み合わせ、モデル化し、再現した際に見える有意義な部分を、見出すことではないか、何ならその過程そのものに、そうさせた私と私でないものに対して、喜びを得られるような感覚を得ることができれば、この困難さという認識の枠組みを中和する、面白いことと退屈なことの二項対立を解消することができるのではないかと考える。(正確に言うとそう考えていたのではないかと思う。興味を持ったきっかけはもう思い出せないし、気が付いたら読んでいたことなので、明確な目的からそれを実現させるための手法を考えたのではなく、すでに現実として起こったことから考えてみている。)

つまらなさそうなことでも、辛いことがあっても、考えるために全身でつまらなさ、辛さを引き受ける、そして考える、そのための手はずと道具をそろえ、時間を確保し、体力をつけ、実践し反省する。いかに空が青いのか、いかに樹木が恐ろしいか、いかに空気が軽やかか、いかに私であるということが矛盾をはらみ不思議なのか、それ以上に何を望むのか。わかりえない問いに対して考え続けることを自分の形として制作する、そして得た形によってフックされる事柄によって日常=つまらないと思っていたものを変色させる。それがまた考えるネタになる。

もちろん上記は十分などではないし、全体を捉えることができない私が十分という表現をもちいること自体ナンセンスな感じだが、今現時点においては。これでもって終わろうと思う。