2018.12.03-18

何か書き留めなくてはと思っていても、日々の生活は仕事と家事が次から次へとやってきて、それをなくすためには金銭を費やす必要があるけれど、そんなにたくさんのお金はなく、結局自分ですることになり、気付けば夜遅くになり、今日も寝ようと書けず、諦め、諦めたことすら忘れ、思い出すことにも諦めていたとき、数十字のメモ書きはそのときの、書くことによって、何も得られないのにも関わらず跳躍しようとしていた高揚や、僥倖を、朝七時二七分発の満員電車に乗りながら、押し込まれながら、ホームでながめたスマホの画面を思い出し、堪能していた。

 

結婚して二年、妻が亡くなる想像が止まらなくなることが、結婚する前になかったわけではないけども、よくある。駅までの道中車に轢かれないか、帰宅したら強盗に襲われてないか、混み合った駅のホームで何かの間違いで線路に落ちてしまわないか、職場で事故に巻き込まれないか、昨日体調が優れないと言っていたのは重い病気の前兆でそのまま冷たくなってしまわないか。

家に帰ってお帰りと言われてほっとし、元気な姿にほっとし、連絡がつくとほっとし、温もりをこの肌で捉えるとほっとする。

 

先のことなんて分からないし、そもそも今のこともわからないし、ひょっとしたら昔のこともわからないかもしれない。自分が誰なのか、本当はわからないし、妻が誰なのかもわからないし、家族なんて何でもないんだろうし、僕が過ごした田舎もないし、父も母も妹も、何者か分からない、何かわかりあることがあるとするならば、何も分からないということだけなんだろう。そうじゃなければ、哲学や数学や芸術なんて要らないし、消え去ってしまっただろう。

 

それでも、この僕が妻とみる女性がいて、家族だと思う枠組みがあって、友人と呼べる親しみをもって接することのできる人が何人かいて、帰る田舎があって、父と母と妹がいて、そうして見つめる僕がいる。誰、ではなく、いる。それは僕だけではなく、妻にとっても、友人たちにとっても、家族にとっても、近所の犬や猫にとっても、概念としての田舎にとっても、そうなんだろう。

みんな僕の中にいる。いなくなってもいるんだろう、それが僕であっても妻であっても。

 

だったら死ぬことなんて怖くないんじゃないか。怖がっているのとはまた違うんだ。そうなったとき、日々の過ごした跡が、もう二度と二人でどこにも刻むことができなくなってしまうことが、痛む鼻の奥みたいにずっとまとわりつくんだ。

 

だからこそ、日々の暮らしを、跡を残そう。花を生けよう。お茶を飲もう。近所を散歩しよう。写真を撮ろう。食事をしよう。仕事をしよう。家事をしよう。布団に入ろう。