2018.11.14-22

表象は客観と主観のこの両方をすでに含んでいて、両方を前提としている。客観と主観とへの分裂が、表象の最初の、もっとも普遍的な、そしてもっとも本質的な形式だからである。

(意志と表象としての世界、第一巻、第七節)

Twitterでフォローしている人の記事がタイムラインに上がってきて、とても面白く読ませてもらった。

人工知能は小説を読み書きできるか?:第3回『逆翻訳による「探索」と「深化」』(全3回) | Marvin(マーヴィン)人工知能・AIと機械学習の事例メディア

人工知能に小説を読み書きさせる試みを考察することによって、人間のテキストに対する認識を思索するものだった。

この記事を読み終わって、一年ほど前に読んだショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」の一節、冒頭に引用した箇所を思い出した(覚えているもんだね)。

ショーペンハウアーの助けを借りて、私なりに読み書きすることの、その様について考えてみたい。

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上記の引用は、ショーペンハウアーの主著「意志と表象としての世界」において、先行する、また同時代の哲学者の考えをこき下ろす批判することで、主客の対立を乗り越えようとしている箇所だ(と思う、違う?)。

ここでショーペンハウアーは、主客の対立において、先行するのはどっちだ論争に意味はない、まず議論の手始めは、認識できるものは表象だということを主張している。

なぜかというと、何が先で何が後でという話は、時系列に沿って並べることができるという前提がある。時系列に沿って並べることができるものは、認識できるものなので、表象の一形態といえる。

ここで、主観についてのショーペンハウアーの見解を以下に引用する。

すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である。

(意志と表象としての世界、第一巻、第二節)

なにびとからも認識されない主観は、どうやっても時系列に沿って並べることは出来ない。仮に出来たとしたならば、それは主観ではなく主観のような客観だ。

ショーペンハウアーにとっては、世界があってそののちに私があるのでも、私があるからこそ世界があるのでもないし、そんな議論に意味を見出していない。

認識は表象であり、この命題を成立させるためには、認識する側(主観)と認識される側(客観)が必要だというだけ、といっている。

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ここからテキストに対する認識について、上記の考えを適用/展開させてみる。ショーペンハウアーに倣って、まず表象から始める。

文字、文章は間違いなく表象だ。それが目で見ることができる印字されたものでも、指先で触れることができる点字であっても、耳で聞くことができる音声であっても、それらを私たちはめいめいのやり方で捉えることができる。

ここで表象の形式の、主客の分離を、読むことを通して考える。大きな分類は、主観は読んでいるこの私で、客観は読まれている文字、文章といったところだろう。

主観は捉えることができないので、ばくっと私としているが、客観は注目するサイズや視点を変えることで細かくできるし、それらを関係つけることができる。

例えば、目で本を読んでいる場合、網膜に映った像が、視神経を経由して後頭葉視覚中枢で整理される様も、そこから神経網の電気的な活動も、その結果大脳新皮質で言語として論理的に整理されることも、客観として分類出来るだろう。

またそのようにして整理した情報を、他人との会話やインターネット上に発信することもまた、客観の一つとして分類出来る。

 ここで一つ気付くことができることは、私たちは書かれたことしか読むことができない、ということだ。

ものすごく当たり前のことだけれども、なかなか難しい。私たちは文字が何かを指し示すものと捉える。どんよりした雲の下、雨に降られている様は登場人物の悲しさを表しているのだろうか?木々のざわめきは驚きを、朝の鳥たちの鳴き声は爽やかさを表しているだろうか?

雨に降られていようとも木々がざわめいていようとも鳥たちが鳴いていようとも、ただそれらはそれらとしてあり、それら以上でも以下でもない。

するとある文字の連なりを何か意味あるものとして、雑多な情報を収斂させようとする働きが、私の中で作動していることに気がつく。それは私の経験に依存する、外の世界を捉えるための器官の一つといえるかもしれない。

その働きを認識するとき、私は得た情報(ここでは読書によって得た文字や文章、その他私の記憶や経験)を統一しようとしている私と、それを見つめる私の二つに分裂する。

文字を表象として捉えることにより、私を私は二重に認識し、その私を捉えようとするとまた二重に分裂し、これを繰り返し、振り返って目の前ほ文字と対峙するとき、分裂したどれもが私であることに気付き、私がいくつにも重なりあう。

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この困惑は書くことでさらにわかりやすく顕在する。表象から始めた場合、書いてる自分自身を表象として取り扱うと、書いている自分を認識する側の私と認識される側の私に、私自身が分裂する。

さらに書かれた文字に反応して続きを書くとき、ある表象を受け取ってそれに確実にこの私=主観が読むことを通して反応しているのだけれど、上記の通り反応の結果を認識するためには客観の側になければならないし、その客観を認識している私はまた捉えることのできない主観の側にいる。

これを連続して行うと、言葉と客観側の私が即興のセッションをしている感覚になる。言葉によって私が半ば自動的に作動し、続きを書き、またそれを読み、また書く。

これらの運動を認識している私は、困惑し、恍惚になる。

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2500字以上も使って何をやってるんだおれは。寝る時間も遅くなってるし、疲れてるし。